午前中にサガを出発して、急遽行く事にしたニャラム方面へ向かいますが、道路の決壊で地元民以外は通してくれません。途中の峠に戻り、ヒマラヤの山々に向けてワークをすることになります。
もともとカイラスを聖山としていたボン教徒(もともと教義はなく自然を敬っていた地元の宗教で、日本の神道のように人々の生活にいまも根付く在来宗教)からカイラス山を奪ったチベット仏教の聖人、ミラレパが修行した場所へ行こうとしていたのです。
が、行けません。
考えてみると、カイラスへ行って成すべきは、ボン教の神々や聖人達への癒しだったかもしれません。
カイラスを奪われたボン教徒の聖山とされた山は、カイラスのすぐ隣にあるのですが、コルラ(山を回っての巡礼)ができる場所ではありません。だから、ボン教徒は今ではカイラスを反対回りに回るのです。なぜ反対なのか、考えていませんでしたが、正規の周り方が許されないからだったのではないでしょうか。
日本各地の縄文の神々が仏教の天部の守り神達に入り込まれて北へ向かうという『火の鳥』のストーリーを思い出してしまいました。縄文への癒しは、ここではボン教への癒しに繋がるのかもしれません。それに気づかなかったから行けなかったのかな? いや、それだけではないはずだけど、でも、それも一因かもしれない。
考えてみれば、今までの私の巡礼は、癒しを必要とするところへと向かってきたようにも思うのです。
そう言えば、カイラスへ行けなくなる前の夜、何かが私達の所へ来ていました。
私達が行くのを、癒しが成されるのを楽しみにしていたそれらの存在が、行けなくなる私達を知って、前の晩に癒しを求めて来ていたのかもしれません。特に私と優しいTさんの所に。
朝起きて、結構頭が重かったけど空元気を出していた私は、カイラスへ行けなくなってしまって結構力が抜けてしまいました。そして、カイラスから離れるバスに揺られる頃には、頭の痛さが身にしみてきてしまっていました。
うつらうつらとしている中で、いくつかのイメージや言葉が降りてきていましたが、中でも鮮烈だったのは、「9ではない。8+1だ。」と「大地に手足を付けろ。」いうものでした。ヒマラヤ、つまりネパール方面から何かが来るというメッセージも来ていたので、そちらを意識しながら手足を大地に着けて、私は仲間の後ろで自分だけのワークをすることにしました。
以前にネパールのポカラでヒマラヤの方からお出でになった方に、またお目に掛かかれました。大きく私達を囲んで地から何かを立ち上らせるようなお仕事をして下さいました。召喚の仕事ができたかもしれません。
私についてきた存在達への癒しもそこで行われたかもしれません。
頭の痛さはすっかりどこかへ行き、冗談の出る口がやっと復活しました。
シェーカルへ
その後は、夕暮れの中をシェーカルのホテルまでひた走ります。
夕暮れの もの悲しいような風景が身にしみます。
あまりの美しさに夢中でシャッターを切ったこの時間が、今思い出すと至福だったかもしれません。
至る所に見える寺の廃墟。大昔の物かと思っていたら、ほとんどが文化大革命で破壊されたものだと分かり、切ない思いになります。
彩雲を出して貰えるほど、きちんと仕事ができたのかどうか分かりませんでしたが、見せて貰ったことに感謝しました。2回も見せて貰えたのだから、何か少しだけは仕事ができたのかもしれません。
「明日の朝は、チョモランマを見に行きますよ。綺麗に見えるといいですねえ。」と、陳さんが傷心の私達を気遣います。
ホテルの食堂には、チョモランマの大きな絵が掛かっています。「明日は朝早く行きますから、雲がないかもしれませんよ。」
こうなったチョモランマだけでも見ていきますか、と私達。
チョモランマの峠
見えました。8848mの頂上まではっきりと。こんなに綺麗なチョモランマを見せて貰いました。
陳さんもこんなに綺麗に見られたことはありませんよと、仕切りと私達の好運を讃えてくれました。
サキャ・ゴンパ
チョモランマを見た後は、サキャ・ゴンパへ。
モンゴルがチベットを支配していた元の時代に政治と宗教の中心だった寺だそうです。地下に経本を隠すことで経本だけは文化大革命で燃されずに済んだそうです。残念なことに北のゴンパは全て破壊されてしまったそうです。
仏具を磨く地元の女性たちです。「ツァシデレ」と声を掛けると「ツァシデレ」と返してくれます。
写真撮ってもいいかと聞いたら、「一生懸命やるから撮りな。」と、超スピードで磨いてくれました。
この後、私達はギャンツェの町に向かいます。
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